2017年 11月 02日 ( 1 )

Conclave / Robert Harris

コンクラーヴェ(ラテン語: Conclave)とは「教皇選挙」を意味する言葉で、カトリック教会においてローマの司教たるローマ教皇を選出する選挙システムのこと。Conclave とはラテン語で "cum clavi" (「鍵がかかった」)の意である。(Wikipediaより引用

図書館の英語本コーナーで見つけて読んだ本。Robert Harris氏の本を初めて読んだのは“Fatherland(邦題『ファーザーランド』)“で、以後、追いかけてはいないが機会があると読む作家さん。“Pompeii(邦題『ポンペイの四日間』)“は読んだ。“The Ghost(邦題『ゴーストライター』)“は記憶にないが記録にある。“Archangel(邦題『アルハンゲリスクの亡霊』)“は読んだような気がするが記録にない。

2016年発刊のConclaveは、近未来の世界を舞台に、ローマ教皇が亡くなってから枢機卿団が後継者を選出するまでの話である。舞台はバチカン市国内で、全世界から集まった枢機卿団が選挙中に住むCasa Santa Martaと選挙が行われるSistine Chapelを行ったり来たりする。外界から遮断された状態で枢機卿団が行う選挙が題材なので、登場人物のほとんどが50台から80歳までの男性。名前を覚えるのが苦手な私は途中で混乱してしまい、9人の名前と役職をメモに書いて読み進めたが、基本的にはすいすい読める本だった。

始めて覚えたローマ教皇はヨハネ・パウロ2世(在位1978-2005)、という世代の私が、Conclaveという単語を私が初めて知ったのは、たぶんDan Brownの“Angels & Demons“(邦題『天使と悪魔』)だと思う。トム・ハンクス主演の映画も観たが、今回“Conclave“本を読んでふと思ったのは、「ユアン・マクレガーはCamerlengoにしては若過ぎたんじゃないか!?」という事だった。別に年齢制限がある役職ではないらしいが、それにしても若い。“Conclave“を忠実に映画化したら、30台の若造が出る幕はほとんどないような気がする。まぁ80歳間近ではパラシュートで舞い降りるのはちと厳しいか(^^;。

この本では、有力な候補者達にスキャンダルが発覚して失脚していくが、最終的には適任者が見つかって予定調和の大団円、に終わるかと思いきや、最後数ページでやたらと現代的で思いがけないスキャンダルが持ち上がってどんでん返し。なんだかびっくりしてる間に本が終わった。ともあれ、絶対に一生目にする機会のない、超伝統的な儀式の舞台裏を覗き見る楽しさがある一冊だった。

ちなみに今年の10/31と11/1は宗教がらみの祝日で連休だった。10/31は宗教改革記念日(独Reformationstag)で、マルティン・ルターが宗教改革を始めたことを記念する日。私が住んでいるのはカトリック寄りの州なので、プロテスタントの祝日は通常適用されないのだが、今年は500年祭なので特別に祝日だったらしい。カレンダーを見ても関係ないと思ってスルーしていた上に、学校が秋休み中だった事もあり、危うく気付かずに当日を迎えるところであった。ちなみに翌日の11/1は諸聖人の日(独Allerheiligen)で、こちらはカトリックの祝日なので、毎年お休み。ドイツでは日曜祝日はお店が開いていないので、冷蔵庫が空っぽのまま連休を迎えると結構マズいのである。

この祝日のせいもあり、夫と珍しく大人の会話をしていたら、「鎖国時代の長崎にオランダだけが出入りを許されたのは偶然ではない。カトリックの国は布教目的で日本に近付いたが、オランダ人はプロテスタントで、商売だけに興味があり、布教をしようとしなかったから、交易を許された。」と夫に教わってしまった。もともと社会科が大の苦手な上に日本史を習ってから何十年も経っているとはいえ、日本や歴史の専門家でもないガイジンにそんな指摘をされて「えっ、そうだった!?」と驚くのは、さすがにかなり恥ずかしいものがあった。キリスト教宗派や欧米諸国がみんな十把一絡げの私が、なんだってこんな所に住んでいるんだかねぇ~。

宗教つながりで最近面白いと思ったのがこちらのリンク先の記事
『「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは』
中でも妙に腑に落ちたのが、
『日本人の宗教観というのはBelieve in somethingではなくて、Respect for somethingもしくはRespect for others、こういうスタイルが日本人の宗教観です。』
という表現。
以前、「ぐりとぐら」で有名な作家の中川李枝子さんが講演会で勧めていた『一〇〇年前の女の子』という本を読んでみたら、田舎の四季を過ごす主人公の日常の中に、神様を敬う行動様式が当然のように組み込まれており、「これは人の心に神様が生きていた時代だなぁ」と思った。
そもそも日本の神様はおそろしく人間臭い。怒って閉じ篭った太陽神を何とかして外に出そうと八百万の神様が集まって裸踊り、騒ぎが気になって外を覗き見た太陽神を引っ張り出して一件落着。などというまるで庶民オヤジ宴会における余興のごとき逸話を聞いて、親近感を覚える人はいるだろうが、神々の偉大さや素晴らしさに感動してひれ伏す人はあまりいないだろう。ギリシャ神話の神々も結構人間臭いかも。山の神や海の神に敬意を払う(respect for)メンタリティは、全知全能の唯一絶対神を信奉する(believe in)メンタリティとは、かなりかけ離れている気がする。神に畏れを抱くという点は共通しているかもしれないが。

以前日本で住んでいたイギリス人女性が、「日本に来てから地震が怖くて不安で仕方なかったが、キリスト教を信じるようになって、平気になった。」と語っており、「なるほど、この人にとって、宗教は確かに必要な物なのだなぁ。」と思わさせられた。その一方で、「キリスト教徒は行動の指針を神に託しているが、日本人はいったい何を根拠に判断して生きているのか?」と尋ねられた私は、返答に窮した。単に私が苦労知らずなのかもしれないが、日常の判断をいちいち神様に委ねる必要性はあまり感じない。逆に「いくらキリスト教徒でもそうしょっちゅう天啓に打たれる訳でもないだろうし、全ての問いに対する具体的な答が全て聖書に載っているとも思い難いが、いったいどうやって神様に判断してもらうんだ?」という疑問を後になって抱いたのだが、答がこの本“Conclave“にあった。

’No one who follows their conscience ever does wrong, Your Eminence. The consequences may not turn out as we intend; it may prove in time that we made a mistake. But that is not the same as being wrong. The only guide to a person’s actions can ever be their conscience, for it is our conscience that we most clearly hear the voice of God.’ (”Conclave”, p.296)

なるほど。しかしこれだと結局のところ「自らの良心に従って行動する」訳で、神様を信じない人でも大差ないような・・・と思ってしまうのは、やはり私が異教徒だからか。キリスト教国に住んでキリスト教に一定の敬意を払ってはいるが、私自身が「信じる者は救われる」と心から信じられる日が来るとはあまり思えない。


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by penguinophile | 2017-11-02 07:37 | Trackback | Comments(0)